カテゴリー: 講演

  • 水戸黄門と、助さんと格さんと

     

    古事記に関する原稿を作成。

     

    そのなかで、水戸黄門(徳川光圀。家康のお孫さん)のお話が出てくる。

     

    もっとも嬉しい発見だったのは、助さんと格さんはテレビの水戸黄門では脇役ですが、実は両名とも古事記の高名な研究者だということ。

     

    もっとも意外だったのは、水戸黄門は少年時代、かなりの不良だったらしいこと。

     

    もっとも衝撃的だったのは、水戸黄門がつくった大日本史をもとにできた水戸学が幕末の尊皇攘夷の考え方の基本になっていて、吉田松陰や高杉晋作は「We love 水戸学」で、結果として倒幕につながる。つまり徳川幕府を倒したのは、もとを辿れば同じ徳川であったということ。

     

     

    3人は、旅を楽しんでいただけではなく、大日本史を編纂するための資料集めをするための旅だったんだと、いやはや、なんだか改めて水戸黄門の再放送を観たら、三人への見方が変わるなあと思いました。

     

     

  • 自己紹介をしていないのに話者が特定できる理由

     

    登場人物が不確定で、依頼者様にもどんな方がその会議に出席されていたかご存知でない場合があります。(とくに依頼者様が自社のクライアントから音源をお預かりした場合などがそうですね)

     

    では固有名詞はまったく表記することができないかと言えばそういうことでもありません。

     

    たとえば、こんな感じ。

     

    ==

    ――今日は、大変お忙しい中お時間をいただき、知事にお話をお伺いしたいと思います。よろしくお願いいたします。

     

    よろしくお願いします。

     

    ――石原さんのあとを受けての就任ということですので、なかなか大変な部分もあるんじゃないですか?

     

    いやいや、そんなことは。ちょっとはあるかな(笑)

     

    ――やはりまずはオリンピック招致のことについてお伺いしたいのですが。

    ==

     

    という会話を見たとき、とくに回答者のお名前は出てきていませんよね。

    でも、誰だかスパッとわかります。そうです、現東京都知事である猪瀬直樹氏ですね。

     

    とまあ、これは簡単すぎる例ではありますが、いずれにしても、音声で話されている会話にその話者のお名前が出てこなかったとしても、話者の固有名詞を特定することができます。

     

    その方法としては、会話の中でその方の周辺情報が一定程度出てきているはずですので、それを精査し、つきとめるという方法です。

    つまり、「音声で確認が取れない=不確定」ではなく、話の中身を精査し、その話の内容から個人を特定するということになります。

     

    これは回答者が、たとえば知事さんのような全国的に知名度のある方じゃなくても、特定は可能です。

     

    ○○病院の看護部長

     

    という表現が出てきたとき、一般的理解として、看護部に部長は一人しかいません。ですから、○○病院のウェブサイトで組織を確認し、看護部長である方のお名前を記載することができます。

     

    といっても、この方法は万能ではありません。わからない場合もあります。

     

    先の病院の例で言いますと、看護師さんの場合です。

    看護部長は、ひとつの病院、ひとつの組織で1名しかいませんが、看護師さんは大勢いらっしゃいます。

    この場合は、なかなか特定が困難です。

     

    もっとも顕著な事例は、いわゆる「一般の方」という括りに入る方々です。

     

    といっても、我々もひとたび職務から離れれば「一般の方」です。

     

    テープ起こしと翻訳を専門にしているタイナーズの代表者

     

    といえば、まさしく私のことですが、

     

    隣近所に住んでいらっしゃる男性の方

     

    だけですと、これではわかりませんね。

     

     

    そういう意味では、ご依頼内容によって特定ができる場合と困難な場合とで分かれます。

     

     

     

  • 多様化する価値観を受け入れなくていい理由

     

    先日、経営コンサルタントの講演のテープ起こし原稿を作成しました。

     

    その講演のお話の中で、「社会は多様化する価値観を受け入れるべきだ」という主旨のお話があり、聞いていると、ちょっと違うなと思いましたので、私なりの答えをひとつ。

     

     

    近年、「価値観が多様化した」ということをよく耳にしますね。そして、「価値観が多様化している。だからそれを受け入れる社会でなければならない」ということもよく耳にします。

     

     

    誰しも多様な価値観を受け入れることは大きなエネルギーを要するわけです。

     

    人や組織の価値感を受け入れることに、うざったく感じるときと、なんのストレスも感じないときとがあります。

     

    うざったく感じるのは、「やっぱり価値観が異なるから」は半分正解で半分間違い。その人その組織と自分とで、自分がもっとも大切にしていること(本質)が大きく異なるから、が正解。

     

    なんのストレスも感じないのは、「価値観が同じだから」は半分正解で半分間違い。その人その組織と自分とで、自分がもっとも大切にしていること(本質)が同じまたは近しいから、が正解。

     

     

    価値観とは物事や状態を評価する物差しです。

    この物差しは自分がもっとも大切にしていること(本質)が尺度で、自分がもっとも大切にしていること(本質)にかなっている物事や状態を是と判断し、かなっていない物事や状態を非と判断します。

     

    つまり、価値観とは自分がもっとも大切にしていること(本質)を正当化するための手段です。

     

    本質というのは、人や組織それぞれでそんなに数多く種類はありません。だいたいは1つ、ミラクルで2つくらいです、たぶん。

     

    ということで、手段が増えたのであって、本質が増えたわけではありません。

    ですから、本質に着目すれば、価値観が多様化しても混乱はしません。

     

     

    だから、価値観が多様化しているからそれを受け入れる社会でなければならない、というのはちょっと違っていて、社会が確固たる本質を決定し、その尺度によって受け入れてもいい価値観と受け入れてはいけない価値観とを取捨選択するべきである、というのが正しいです。まあ人間が中心の社会ですので、そんなにスパッと分けられないとは思いますが。

     

    人ベースで言いますと、ある人の価値観に疑問を持ったり受け入れられなかったりするのは当然です。そもそもその人の本質とあなたの本質とが少し違っていたり大きく違っているからです。価値観が近しいまたは同じになるはずがありません。ですから、本質が近しいまたは同じ(というのはいないかもしれないけれど)人であれば、その人の価値観は受け入れることできます。